臨済宗 妙心寺派 金鳳山

足あとを訪ねて

幕藩体制を築いた名老中

松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)

優れた政治的才覚
徳川家康の家臣大河内久綱の長男として武蔵国に生まれた信綱は、幼少より偉才を発揮し、第3代将軍家光に仕えて老中に登り詰めました。その後、第4代将軍家綱の幕府老中も務め、幕藩体制の完成に大きく貢献します。幕政下では島原の乱鎮圧、明暦の大火処理、また川越藩主として玉川上水、野火止用水の開削事業も行いました。
先見の明ある優れた手腕の数々は「知恵伊豆(ちえいず)」と称えられ、多くの逸話を残しています。

歴史を刻む菩提寺
信綱の興した大河内松平家の、歴代の菩提寺となっているのが平林寺です。信綱の祖父大河内秀綱の祖母が、当時まだ岩槻にあった平林寺に埋葬されたことを始め、以降、現在に至るまで同家の菩提寺となりました。
境内林に囲まれた一族の廟所は、300年以上の時を経た今もなお、厳粛な気配に満ちています。

伝・松平信綱坐像
高村光雲作 明治時代
足あと
本堂大河内松平家表紋「三蝶の内十六葉菊」裏紋「三ッ扇」の荘厳な戸帳を見ることができます。
大河内松平家廟所約3,000坪の墓域に、一族歴代の墓石170基余が建ち並んでいます。
松平伊豆守信綱夫妻の墓大河内松平家廟所にある信綱と正妻の五輪塔。埼玉県指定史跡。
野火止用水信綱が開削した玉川上水からの分水。平林寺周辺の用水に沿って緑道も整備されています。平林寺内を流れる分水は「平林寺堀」と呼ばれます。埼玉県指定史跡。

独創性あふれる文人画家

富岡鉄斎(とみおかてっさい)

博識に裏打ちされた絵画
天保7年(1836年)京都生まれ。好学家の父の影響で幼くして学に親しみ国学、漢学、陽明学、詩文等を学びました。19歳頃より始めた絵画は、膨大な読書量と知識を背景に独自の世界観を表現。鉄斎は自らを学者としつつも、70年の画業で描いた作品は二万点以上といわれ、学びと画技向上に飽くなき情熱を注ぎ、老いて尚その境涯は磨かれていきました。

残された写生画
「万巻の書を読み万里の路を行く」を座右の銘とした鉄斎は、全国を旅しています。明治22年(1889)52歳のときには平林寺を訪れ、戴渓堂(たいけいどう)の写生画を残しました。戴渓堂は、日本に書と篆刻を伝えた独立性易(どくりゅうしょうえき)禅師が祀られており、鉄斎は独立禅師を尊崇していたといわれています。鉄斎は禅師の書論『独立性易真蹟書論』も有し、この書論は松永安左エ門(下述)の所蔵を経て、平林寺に寄贈されています。

「78歳の鉄斎 ー京都室町一条の自宅ー」
大正時代
写真提供 清荒神清澄寺 鉄斎美術館
足あと
戴渓堂独立性易坐像が安置されています。正徳3年(1714)建立、のち現在の地に移築。
書画鉄斎の写生画。『独立性易真蹟書論』巻末に戴渓堂、別紙に独立禅師の顔が描かれています。

激動の近代日本を生きた気骨の人

松永安左エ門(まつながやすざえもん)

「電力の鬼」
明治8年(1875)長崎県生まれ。福沢諭吉『学問のすゝめ』に深く感銘を受け、慶応義塾大学に入学、諭吉に薫陶を受けます。日本銀行勤務、材木や鉱山経営等を経た安左エ門は、明治42年(1909)福博電気軌道専務に就任。のち東邦電力、東京電力を設立し、電気事業を通じて日本の政治経済に深く関わっていきました。戦争の激化に伴い、安左エ門は一時政財界を引退しますが、戦後、困難を極めた電力民営化を実現し「電力王」「電力の鬼」と呼ばれました。

数寄者のたのしみ
安左エ門は60歳を過ぎて茶の道に入り、号を、論語「六十にして耳順う」から耳庵(じあん)としました。平林寺向かいの屋敷地には飛騨地方の古民家を移築。「睡足居(すいそくこ)」と名付けて気楽な茶会をたのしみ、三井物産の創設者で大企業家の益田孝(鈍翁)、製糸業や銀行業で財を成し三渓園(横浜)を作った原富太郎(三渓)とならぶ近代三茶人に数えられています。
数寄者でもあった安左エ門は、多くのゆかりの品々を平林寺に寄贈しました。昭和46年(1971)95歳にて死去。今も平林寺境内林の一角に静かに眠っています。

撮影 杉山吉良
所蔵 一般財団法人 日本カメラ財団
足あと
山門左右の阿吽の金剛力士像は、安左エ門寄贈です。
旧半僧門かつて淀城(京都)の門であったと伝えられています。老朽化に伴って半僧坊感応殿の手水舎の奥に移築されています。安左エ門寄贈。
下卵塔松永家の墓所があります。
睡足軒の森安左エ門のかつての屋敷地。安左エ門が移築し茶会をたのしんだ「睡足居」は、現在「睡足軒(すいそくけん)」と呼ばれます。国登録有形文化財(建造物)。

新時代を切り拓いた日本画家

速水御舟(はやみぎょしゅう)

平林寺での参禅
明治27年(1894)東京生まれ。幼い頃より絵の才能を発揮し、尋常高等小学校卒業後、日本画を本格的に学び若くして日本画壇において注目を集めます。
大正12年(1923)3月〜12月、御舟は平林寺に仮寓しています。雲水と生活を共にしながら、当時の峰尾大休老師のもと禅の修養に励みました。また位牌堂を画室とし、平林寺境内林の風景を描いています。御舟は平林寺を辞してのちも同地に留まり、武蔵野の風景や、趣ある民家の佇まいを《春昼》等の作品に残しています。

夭逝した画壇の星
その後、御舟は代表作として名高い《炎舞》や《名樹散椿》(共に重要文化財)等を完成させます。日本画壇の新時代を牽引する旗手として、更なる活躍が期待されていた矢先、昭和10年(1935)40歳にて急逝。こんにちもっとも人気の高い日本画家のひとりとなっています。
御舟の名作の数々は山種美術館(東京)に多く収蔵され、生涯を通じ新たな画風に挑戦し続けた画家の作品に触れることができます(常設展示はありません。詳細は同館にお問い合わせください)。

山種美術館
http://www.yamatane-museum.jp/

速水御舟 肖像 速水御舟《春昼》
1924(大正13)年 絹本・彩色
山種美術館
足あと
平林寺境内林業平塚から歴代塔所にかけての雑木林の風景が作品に描かれています。
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