臨済宗 妙心寺派 金鳳山

歴 史

武蔵野の禅刹、平林寺

岩槻での開創

平林寺の創建

金鳳山平林寺(きんぽうざんへいりんじ)は、永和元年(1375)、今からおよそ650年ほど前の南北朝時代、武蔵国(むさしのくに)埼玉郡、現在のさいたま市岩槻区に創建されました。開基は、禅に深く帰依していた大田備州守春桂蘊沢居士(おおたびっちゅうのかみしゅんけいうんたくこじ)、開山には鎌倉建長寺住持で、書や偈頌(げじゅ)に優れていた当代の高僧、石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師が迎えられました。

命名の由来

「金鳳山」と名付けられた山号は、かつて石室禅師が元(げん)に渡って修行した、金陵(きんりょう)の鳳台山保寧寺(ほうたいさんほねいじ)に由来しています。また寺号は、寺の伽藍が平坦な林野に見え隠れする様子から「平林寺」とされました。

石室善玖坐像平林寺開山石室善玖禅師坐像(部分)
江戸時代

戦乱の荒廃から中興へ

鉄山禅師と家康

戦国時代に下り、関東一円は豊臣秀吉による小田原征伐の戦禍を受けます。岩槻にあった平林寺も多くの伽藍を失い、塔頭(たっちゅう)のひとつ聯芳軒(れんぽうけん)が辛うじて焼け残る有様でした。

そこへ、関東に領地替えとなった徳川家康が鷹狩に訪れます。途中、家康は休息のために、聯芳軒に立ち寄りました。軒主から平林寺の由緒を聞いた家康は、平林寺の再興を約束、復興資金と土地を寄進します。更に家康は、かつて駿河臨済寺にて共に学び、臨済禅を代表する傑僧となっていた鉄山宗鈍(てつざんそうどん)禅師を、平林寺住持として招聘(しょうへい)しました。

天正20年(1592)、平林寺の中興はここに果たされ、平林寺は建長寺派、大徳寺派の系譜を経て、妙心寺派としての新たな歴史を刻んでいきます。

平林寺中興開山鉄山宗鈍禅師(部分)江戸時代平林寺中興開山鉄山宗鈍禅師(部分)
江戸時代

野火止への移転

中興開基、大河内松平家

家康の関東入部に際し、家臣として三河国(みかわのくに)から共に上京した大河内秀綱(おおこうちひでつな)は、平林寺の大檀那(おおだんな)となって山門や仏殿等の伽藍の再建を行いました。秀綱の孫で、松平家の養子となった松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)も徳川家に仕え、第3代将軍家光、第4代将軍家綱のもとで幕府老中を務めます。

また、信綱は大河内松平家(おおこうちまつだいらけ)を興し、秀綱はじめ、その祖母寿参尼(じゅさんに)、実父大河内久綱、養父松平正綱らを平林寺に篤く弔いました。一族は代々に渡って大河内松平家廟所で供養され、今日に至るまで、平林寺が同家の菩提寺となっています。

水と林の恵み

岩槻にあった平林寺は、寛文3年(1663)信綱の遺命によって野火止(のびとめ)に移転されます。この地には、信綱が開削した玉川上水から分水された野火止用水が流れ、平林寺にも平林寺堀が引かれました。

水の利を得た地域一帯は、新田開発が進むと共に、人々のくらしを支える雑木林が形成され、江戸近郊の農業都市として発展を遂げていきました。

大河内松平家廟所大河内松平家廟所

近代以降の平林寺

修行道場の開設

禅宗僧侶の修行道場である平林僧堂は、明治36年(1903)に開かれました。本山を京都に置く妙心寺派の僧堂は、関西には既に多くありましたが、平林僧堂は名古屋以東に開設された初めての僧堂となりました。以来、関東を代表する妙心寺派の僧堂として、全国各地から集まった僧侶が修行に励んでいます。

修行環境を守る境内林

伽藍を囲むように広がる平林寺境内林は、僧堂における修行環境を守るために保全され、昭和43年(1968)、国の天然記念物に指定されました。武蔵野の雑木林(ぞうきばやし)の趣(おもむき)を残す貴重な文化財として、文化庁や新座市の協力のもと、継続的な手入れと管理が行われています。

武蔵野の歴史と文化と共に歩んできた平林寺。13万坪以上にも及ぶ山内(さんない)は、四季折々の雑木林の風情と、開創650余年の古刹の禅風を湛えています。

平林寺境内林と放生池平林寺境内林と放生池
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